大学卒業時からタイ語を始めてタイ語で稼ぎながら同時通訳者になった方法 ②2年間のタイ生活でおこなっていたこと

タイには青年海外協力隊員としてナコンシータマラート職業高等学校で人形製作の教員として2年間滞在していました。

タイ赴任中は前回のブログで書きました直接法のタイ語授業の延長のように、タイ人の話す内容を想像しまくって理解できるところは理解しその表現を真似して使う、という繰り返しでした。

2年間のタイ赴任を経て帰国後3カ月して在日タイ王国大使館の労働担当官事務所の通訳職に採用され本格的な通訳生活がスタートしました。

30年も昔のことで、しかも私の場合は日本帰国後にタイ語通訳・翻訳・語学講師を続けることでタイ語力を高めてきましたので、タイでの生活が皆様の参考になるか分かりませんが、当時を振り返ってみました。

1.タイ人と3~4人以上で行動することが多かった

最初の3カ月間ホームステイをした後は一人暮らしではありましたが、朝食も、昼食もタイ人の先生方3~4人と一緒、夕方は町の広場で学校の先生方とエアロビに参加し、夕飯を食べて帰る、といった生活をしてました。

タイ人と二人だけですと、こちらのレベルに合った話しか出来ませんが、3~4人ですと一緒のタイ人が常に話しているので、それを一生懸命聞いていて何とか会話に入れるチャンスを狙い、話を振あられた時には話すという感じでした。

学校は週休二日でしたが、週末私が一人で淋しい思いをしないようにと、多くの先生方が誘い合って下さっていました。ピックアップトラックの荷台に大勢で乗り込んで滝などに度々行っていました。生徒達もよく自宅に誘ってくれていました。

初めて終日一人で自宅で過ごしたのはタイに赴任して1年半ほど経ったときのことでした。

2.特に親しくなった先生が言葉の言い換え力が素晴らしい人だった

図書館の先生と特に親しくなり今でも連絡を取り合っていますが、彼女は、彼女が話したことを私が理解できないと直ぐに他の表現で言い換えてくれ、私が良くわからないタイ語を話しても素晴らしいカンでそれは〇〇か、と直ぐに正しい表現で聞き返してくれていました。

この力は同じタイ人でも人によりかなり違いがあり、スピードを落として話してくれても結局話が通じず互いに疲れてしまうことが少なくなかったのですが、彼女の場合はいつもの早口のままタイータイ辞書のような感じで別の言葉で言い換えてくれました。

彼女自身もある時「生徒に、マリコ先生と話していて疲れないの?って聞かれたけど私はそんなこと全くないからね。」と言ってくれたことがあります。私自身も彼女とは一緒にいて疲れることがなく、自然にタイ語を覚える事ができました。

3.事前に教わったことを授業で教える

私は家政科で人形製作の教員をしていたわけですが、授業は当然タイ語でおこなっていました。

授業の準備で人形を作っていると、たいてい生徒達が寄ってきて話しかけてきました。その時に授業で使いそうな表現や「縫い代」や「半返し縫い」等の単語を教えてもらっていました。

記憶を定着させる一番の方法は他人に教える事だと言われていますが、こうして事前に生徒に教わった表現を使って授業で大勢の生徒を前に教えることで記憶が定着しやすかったかもしれません。

4.筆記テスト問題を作成していた

授業を受け持っていましたので定期テストの筆記テスト問題を作成して採点し、成績もつけていました。

採点で困らないように選択式の問題にしていましたが、タイ語の意味が不明で生徒の成績に影響が出てはいけませんので、タイ人の先生に添削してもらっていました。試験問題作成も良い勉強になっていたように思います。

5.南部タイ語は早口

私の住んでいた南部はとても早口であるため、バンコクや他の地方に行くとタイ語がゆっくりに感じられていました。

通訳を始めたばかりの頃は語彙力が足らす理解できないことは山ほどありましたが、日本に出張に来るタイ人はバンコクや中部出身多く、出稼ぎ労働者は東北、北部出身が多いためか、話すスピードが速すぎて理解できないということは有りませんでした。

ちなみに当時私の自宅はバスタブはもちろんシャワーも無く、大きな水がめに水道水を溜めておいて桶で水をすくうという生活でした。もちろん冷房も無く扇風機だけです。

日本語を使用するのは半年に1回協力隊の会議でバンコクに集まる時、通常は日本の家族や友人との手紙のやり取りする程度でした。

そのような環境で暮らしていていてタイ語が仕事になるとは夢にも思ってもいませんでしたので特別に自宅でタイ語を勉強するといったことはしていませんでした。

しかし日本に帰国して1ー2カ月位たった頃、初めての通訳の依頼が舞い込んできました。

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