荘司さんを偲んで

 

 1年近くブログ更新が滞っていました。きっかけは尊敬するタイ語通訳の先駆者、荘司和子さんの訃報でした。

 書き溜めてあった記事2本は投稿しましたが、ブログで荘司さんの事に触れないことも、荘司さんの事を話題にすることも、どちらも直ぐには出来ず、本日1周忌に投稿することにしました。

 タイ語を学習している方は学習書籍で荘司和子さんのお名前をご存知の方も多いと思います。荘司さんにタイ語を習ったという方も多いでしょう。荘司さんが翻訳された書籍を読まれた方もいるでしょう。

 私にとっては、荘司さんの存在が無ければ、タイ語通訳を続けていなかったであろう大きな存在でした。

 荘司さんとの出会いは「マイペンライ―タイ語ってどんなことば?」という荘司さんの著書でした。  

 1991年に青年海外協力隊でタイ赴任が決まり、地元の図書館にあったタイ関係の本を一通り読みましたが、どれも専門的すぎたり男性目線の内容だったりで興味が持てませんでした。

 その中で荘司さんの著書に出会った時は「こんなに普通の感覚を持ち合わせた女性でタイ語通訳として活躍されている方がいるのか!」と直ぐに大ファンになりました。

 その後私は警察のタイ語通訳専門職員時代に、職員向けにタイに関する記事を書いたり話したりする機会が多々あり、「ソムタムの歌 わたしのタイ30年」も含め、荘司さんの著書は何度も読み返していました。

 初めて荘司さんとお会いしたのは2001年頃、私が研修コーディネータ―として担当した案件に荘司さんが通訳としていらっしゃいました。

 私は当時既に8年程通訳経験があり、前職のタイ大使館では要人通訳を何度も任されるようになっていましたが、いつまで経っても自分のタイ語に自信が持てずにいました。

 タイ人と同じタイ語を話せる日なんて来ないのではないか、日本語からタイ語への訳出は一生かかってもタイ人には敵わないだろう、こんなモヤモヤが続くのであればタイ語は辞めて他の仕事をしようかと悩んでいた時期でした。

 その日は荘司さんとタイ人の通訳がいらっしゃり、日本人講師の講義を初めにタイ人が通訳しました。

 日タイ翻訳のお手本のような訳でしたが、全神経を集中しないと要点を理解することが難しく感じられ、聞いていて疲れる訳出でした。

 交替で荘司さんが通訳し始め、スッと容易に内容が理解でき驚愕していると、目の前にいたタイ人が振り返って私に「(荘司)和子さんの通訳の方が分かりやすい。」と言ったのです。

「私は同じ日本人だから分かり易いのかと思ったけど、タイ人にとっても分かり易いの?」と私が聞くと、別のタイ人も振り返って頷きました。

 この時、私の迷いが消えました。荘司さんのような通訳を目指そう、と初めて仕事の目標ができました。

 諸事情により私はその後間もなくタイ大使館通訳職員に再度戻り、結婚、出産を経て、退職後はパートの翻訳派遣社員となり、二人の保育園児を抱え、フリーランス通訳を細々としていました。

 その間も私が大使館のタイ側通訳、荘司さんが日本側通訳でご一緒したり、フリーランスの遂次通訳でも何度かお会いしていました。

 契機は2012頃に訪れました。初めての同通案件も荘司さんがパートナーでした。大手通訳会社からのタイ語通訳第一人者との案件、私の将来が左右されるだろうと覚悟して仕事を受けました。

 通訳資料が到着すると直ぐに荘司さんから通訳分担の連絡があり、その後も「自動車関係は得意じゃないのよ。」などと何度も連絡を下さり、荘司さんクラスでもこれ程準備に時間をかけるのかと驚きました。

 振り返ってみると、あの時ほど案件前に荘司さんから頻繁に連絡が来たことは無く、初めての同通で私が失敗しないよう、準備の大切さを教えて下さったのだと思います。

 その後、荘司さんとの仕事が増えていきました。。

 荘司さんは難易度の高い案件では前日は他の仕事を入れず準備に充てていらっしゃり、私はその何倍も準備をしなければ到底荘司さんのようには通訳できない、と毎回刺激を受けていました。

 私達は大学卒業と同時にタイで2年間教師、帰国後にタイ大使館に6年勤務、出産を機に退職、フリーランス、と経歴に共通点があるせいか、荘司さんとご一緒の仕事がとても楽しく、私は専業フリーランスとなりました。

 2012年から2018年に荘司さんが同通を引退されるまで、私が担当した複数の通訳者を要する案件の7割程は荘司さんがパートナーでした。

 そのため荘司さんの引退により私の仕事内容や環境が変化しました。これまでのお礼を込めたお食事会の日程を調整しているうちに、仕事の悩みを聞いて頂くようになりました。

現役時代は大先輩に対して遠慮がありましたが、引退された後は「私に愚痴言ってスッキリするなら幾らでも聞くわよ。」との言葉に甘えて色々と話を聞いて頂き、いつも適切な方向に私を導いて頂いていました。

 更には近況を報告し合ったり、タイの面白動画を送り合ったりと、いつの間にか週に数回は連絡を取るようになっていました。

 最後にお会いしたのが2019年の8月、タイレストランで2時間くらいランチしても喋り足らず、喫茶店でお茶して1時間くらい経った時に、「あら、こんなに話していて仕事の話、何もしてないじゃない。」と荘司さんがおっしゃいました。

 憧れのタイ語通訳の大先輩として知り合いましたが、そんな関係になっていました。

 そして昨年8月30日17時過ぎ、いつものように荘司さんからタイのニュース記事が送られて来ました。

 記事にはタクシン元首相とプラユット首相の写真が並んでいました。

 以前、荘司さんはタクシン首相の次のインラック首相まで通訳を担当、私はプラユット首相が初めて、という話を荘司さんとしたことがありました。

 この記事はきちんと読んで感想を送らなければ、と思いそのままとなっていました。

 数日後、通訳仲間から電話がありました。「荘司さん亡くなられたの知ってる?前に一緒に仕事した時、荘司さんと粕谷さん、凄く仲良さそうに話していたから、2人仲良いんだなって思っていて・・・」

 突然の病死にショックを受けると同時に、やっぱり私達仲良かったんだな、と一瞬冷静になりましたが、31日0時過ぎに息を引き取られたと聞き激しく後悔しました。

 私は亡くなる7時間前に頂いていたラインに返信をしていなかったのです。

 私はこれ程親しい人を亡くした事がこれまで無く、亡くなった後の一連の儀式が、亡き人を弔う以上に残された者の気持ちに整理をつけるために有るのでは、と初めて感じました。

 今でもタイの友人から面白動画が送られて来た時は、もう荘司さんと共有して楽しむことはきないのか、仕事で迷いがある時は、荘司さんに相談したかったな、この仕事は荘司さんから引き継いだ仕事だな、と事あるごとに思い出しています。

 今後もこうして荘司さんを思い出しながら仕事をしていくのだろうと、1年近くが経ち受け止めることができるようになりました。

 荘司さん、ありがとうございました。

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